人間の最期

 

年末、受け取った悲しいお知らせ。


となりのおじちゃんが亡くなった。


細かく話せば、もう私が引っ越したからとなりのおじちゃんではないのだけど。一時期私のおとなりに住んでたおじちゃん。

ずっと入院していたから、そんな知らせがいつきてもおかしくないっていう思いは頭の片隅にあった。それでもいざそうなると、身近な人との別れは重く悲しいものだ。


通夜、告別式に主人と、息子2人と参列した。
私にぎゅっとしがみつく次男。お経が怖い、とジッと目をつぶっていた。
長男ははじまりからおわりまで、ずーっと嗚咽をもらして泣いていた。
ひとしきり泣いたあとに、人が死ぬってことはもう2度と会えないっていうことだね。って呟いた長男の言葉が耳にこびりついている。

あの会場の重さ、しんとした空気、匂い、溢れ出るきもち、なみだ、ぜんぶぜんぶグッと自身で受け取って彼が口にした言葉。しっかり彼は、人間の最期を受け止めたのだな、と思った。

 

会場で孫でもないのに大きな声で泣く子供は目立ったのだろう、何人かの大人に、まだ小さいのに感受性が豊かな子ね、優しい子ね、と声をかけてもらった。ありがたいお言葉だけれど、小さい子供にだって人間の死の重みはわかるはずだ。それをそのまま言葉や涙にして吐き出す子もいれば、うまく表現できない子もいるだろう。それだけの事だと思う。子供を見くびってはいけない。大人の思う何倍も、彼らは見ているし、感じている。子供にいい加減な事は言えないな、自戒も込めて身の引き締まる思いがした。

 

あちこちで囁かれる故人を偲ぶ声。

"最後は寝たきりだったって。食事も点滴で、何ヶ月も入院して、かわいそうね…。"

悪意は無いのはわかる。自然にわいてきてしまう感情かもしれない。でも私は嫌だと思った。故人とどんな付き合いがあったのか私は知る由もないし、皆それぞれ好き勝手思うことがあるよね、それはそれでいいけれど、人の命に、人生に、最期に、薄っぺらな感想並べて、かわいそうはないだろうと私は思う。私は嫌いだ。あまりに浅はかだ。
どこの誰にだって、他人の命を、人生を、かわいそうで片付けることなんてできるわけない。

 

隣のおじちゃんの事、私はよく知らない。口数が少ないおじちゃんだった。いつもにっこり笑っていた。本屋の店主だった。入院するまでいつでもおじちゃんはそこにいた。定休日なんて無かった。毎日そこにいた。最初に倒れて入院して一時的に退院してきた時も車椅子で店番していた。再び倒れ、とうとう最後に入院する日まで、40年、おじちゃんは現役の本屋だった。おじちゃんはいつもクラシックを聴いていた。野球が好きだった。漢字検定のためにいつも難しい漢字を練習していた。クイズ番組が好きだった。たまに奥さんに店を任せて、ウキウキ出かけていった。いちいちどこ行くの?なんて聞きはしないけど、コンサートに行ったり野球を観に行ったりしていたのだよね。


どんな人間にもいろんな日々の色がある。それが季節みたく人生を彩っているのじゃないのかな。

 

おじちゃんは最期、わたしにも息子にも1つの学びをくれた。人それぞれのお別れがある。私はここでしずかにさよならするね。ありがとうございました。